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札幌高等裁判所 昭和56年(ネ)320号 判決 1984年10月22日

控訴人(第一審原告)

木下万治郎こと

木下萬治郎

右訴訟代理人

水原清之

田中燈一

被控訴人(第一審被告)

木下清男

主文

原判決を次のとおり変更する。

被控訴人は控訴人に対し、金六〇万円及びこれに対する昭和五五年一一月一二日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

控訴人のその余の請求を棄却する。

訴訟費用は第一、二審を通じこれを三分し、その一を控訴人の負担とし、その余を被控訴人の負担とする。

この判決は控訴人勝訴部分に限り仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  控訴人

1  原判決を取消す。

2  被控訴人は控訴人に対し、金一五〇〇万円及びこれに対する昭和五五年一一月一二日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

4  仮執行宣言

二  被控訴人

本件控訴を棄却する。

第二  当事者の主張

一  控訴人の請求原因

1  控訴人と被控訴人は、他の三名の姉妹弟らとともに訴外亡木下イマ(以下「イマ」という。)の共同相続人であり、別紙物件目録記載の建物(以下「本件建物」という。)は、もとイマの所有であつた。

2(一)  被控訴人は、昭和二五年一〇月ころ、控訴人との間で、被控訴人が控訴人から金六〇万円を受取ることを条件に、将来イマの相続が開始した場合、イマの遺産の一部となるべき本件建物について、被控訴人が右相続により取得すべき持分権を控訴人に対して譲渡ないし放棄する旨の契約(以下「本件契約」という。)を締結した。そして、控訴人は被控訴人に対し、そのころ、本件契約に従い金六〇万円を支払つた。

(二)  仮に、本件契約の存在が認められないとしても、次の諸事実に照らすと、控訴人と被控訴人を含むその余の前記共同相続人らとの間に、昭和三五年一月三〇日すぎころ、イマの遺産中、本件建物以外の財産は控訴人を除くその余の前記共同相続人らがこれを相続し、同人らの本件建物持分権はいずれもこれを控訴人に対し譲渡ないし放棄する旨の黙示の合意(以下「本件黙示の合意」という。)が成立した。

即ち、イマの死亡による相続開始より一〇年前に本件契約を証する公正証書が作成され、その後右相続開始時まで被控訴人から何らの異議もなく経過し、また、右相続開始後本件建物以外の相続財産が控訴人を除くその余の前記共同相続人間で分配され、以後一七年間にわたつて被控訴人からは何らの権利主張もなかつた。

3  イマは、昭和三五年一月三〇日に死亡し、相続(以下「本件相続」という。)が開始した。

4  ところが、被控訴人は、昭和五二年に至り、本件建物について本件相続による五分の一の持分権のあることを主張してその確認を求め、被控訴人以外の前記共同相続人らを相手方として訴を提起し、その主張どおり認容されて同五五年四月、その判決が確定するに至つた。

5  被控訴人の右4の行為は、本件契約及び本件黙示の合意に反するものであり、また、被控訴人の前記主張が裁判上確定したことにより、本件契約及び本件黙示の合意による被控訴人の債務は履行不能となつた。

そして、控訴人は、被控訴人の右債務不履行により、本件建物及びこれに付随する借地権の五分の一を失うことになり、その価格である金一五〇〇万円相当の損害を被つた。

6(一)  仮に、右債務不履行の主張が認められないとしても、前記の事情からすれば、被控訴人は、何ら法律上の原因なくして、昭和二五年、控訴人の損失において金六〇万円を利得したことになり、被控訴人は控訴人に対して右金員を返還すべき義務がある。

(二)  被控訴人は、遅くとも本件訴状の送達を受けた昭和五五年一一月一一日には、右返還義務の存在を知つた。

(三)  ところで、右金六〇万円はイマの相続に関して特別受益の性質を有する金員として交付されたものであるところ、本件紛争の実態は、本件相続に関して相続開始前に多大な特別受益を得た被控訴人とその余の前記共同相続人らとの間の公平の維持を求めるものである以上、右金員の金銭価値は現時点における貨幣価値に換算した価格をもつて評価すべきところ、昭和二五年当時の金六〇万円の同五五年一一月時点における貨幣価値は金三〇〇〇万円を下らない。そこで、控訴人は、右金三〇〇〇万円のうち金一五〇〇万円の返還を求める。

7  よつて、控訴人は被控訴人に対し、債務不履行に基づく損害賠償として、または不当利得に基づく返還請求として、金一五〇〇万円及びこれに対する本件訴状送達の日の翌日または被控訴人が悪意になつた日の翌日である昭和五五年一一月一二日から完済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金あるいは法定利息の支払を求める。

二  請求原因に対する被控訴人の認否

1  請求原因1の事実は認める。

2(一)  同2(一)のうち、被控訴人が控訴人主張のころ、控訴人より金六〇万円受取つたことは認めるが、その余の事実は否認する。

仮に、本件契約が存在したとしても、それは無効なものである。

(二)  同2(二)の事実は否認する。

3  同3の事実は認める。

4  同4の事実は認める。

なお、被控訴人が、本件建物についての持分権を主張したのは、昭和三六年からである。

5  同5及び同6の(一)ないし(三)の主張は全て争う。

三  被控訴人の抗弁

仮に、控訴人が被控訴人に対し、金六〇万円の不当利得金返還請求権を有するとしても、右請求権は、これを行使することができた昭和二五年一〇月から一〇年の経過により既に時効消滅している。被控訴人は、昭和五六年六月一二日の原審口頭弁論期日において、右時効を援用する。

四  抗弁に対する控訴人の認否

争う。

控訴人の不当利得返還請求権は、昭和五五年四月、本件建物についての被控訴人の持分権の存在が裁判上確定することにより発生したから、同日をもつて、右請求権に関する消滅時効の起算点となすべきである。

五  控訴人の再抗弁

被控訴人の消滅時効の援用は、次の諸事実に照らすと信義に反し許されない。即ち、(1)被控訴人は、昭和二五年一〇月に公正証書をもつて明確に本件相続により取得すべき本件建物の持分権放棄をなし、その対価として控訴人より金六〇万円を受領したこと、(2)被控訴人は、その後本件相続開始時まで一〇年間、右の点につき何ら異議を唱えることがなかつたこと、(3)本件相続開始後、被控訴人を含む控訴人以外の前記共同相続人らは、本件建物以外の本件相続財産の分与にあずかつていること、(4)被控訴人は、本件契約締結後二七年(本件相続開始後一七年)経過した同五二年に至つて突如として本件建物についての持分権を主張し始め、控訴人や他の相続関係者を混乱に陥れたこと、(5)その結果、本件建物の五分の一の持分権は被控訴人に帰属することとなり、本件相続開始時の同三五年における本件建物及びこれに付随する借地権価格と右持分権の存在が確定した同五五年における右価格とを比較すると、被控訴人は控訴人に対し、莫大な損害を与えることになるなどである。

六  再抗弁に対する被控訴人の認否全て争う。

第三  証拠<省略>

理由

一本件契約の存否及びその有効性について

原判決理由一及び二に判示するところは、次のとおり訂正するほかは、当裁判所の判断と同一であるから、ここにこれを引用する。

1  原判決四枚目表四行目に「同2」とあるのを「同2(一)」と、同八行目に「原告本人尋問の結果」とあるのを「原審及び当審における控訴人本人尋問の結果」と、同一一行目に「相続分を放棄する旨約し」とあるのを「持分権を控訴人に対して譲渡ないし放棄する旨の本件契約を締結し」とそれぞれ改める。

2  原判決四枚目裏六行目に「相続を放棄したり、自己の相続分を譲渡する契約」とあるのを「相続財産となるべき特定の財産につき、相続により取得すべき持分権を放棄したり、これを他の相続人に対して譲渡する契約」と、同九行目から同一〇行目にかけて「本件建物の相続分を放棄する旨」とあるのを「本件建物についての相続による持分権を控訴人に対して譲渡ないし放棄する旨」とそれぞれ改める。

二本件黙示の合意の存否について

1  <証拠>を総合すると次の各事実が認められる。

(一)  イマと、その夫かつ控訴人及び被控訴人らの父である先代の訴外亡木下萬治郎(昭和一一年一一月二七日死亡……以下「先代萬治郎」という。)との間には、長男である控訴人(明治四二年三月一九日生)、長女である訴外小松ヒナ(大正二年一月二四日生……以下「小松」という。)、次男である被控訴人(大正六年四月二三日生)、次女である訴外横山芳枝(大正九年二月二四日生……以下「横山」という。)、三男である訴外木下正治(大正一四年三月二四日生……以下「正治」という。)の五名の子がある。

(二)  被控訴人は、昭和二五年一〇月ころ、控訴人との間で本件契約を締結し、そのころ控訴人から金六〇万円の支払を受けたので(被控訴人がそのころ控訴人から金六〇万円を受取つたことは当事者間に争いがない。)、控訴人の要求に応じて、同月三一日、控訴人と共に公証人役場に赴き、右金員支払の事実及び本件契約内容を確認する旨の公正証書(甲第一号証)の作成を嘱託したが、控訴人及び被控訴人は、本件契約の有効性については特に疑問を抱くこともなかつた。

(三)  控訴人は、昭和二九年ころ、正治に対しても、本件契約におけると同趣旨の金五〇万円を支払つた。

(四)  イマは昭和三五年一月三〇日に死亡したが(この事実は当事者間に争いがない。)、その遺産としては、本件建物及びこれに付随する借地権並びに預貯金や現金の合計金約二四万円が存在し、控訴人及び被控訴人ら五名の兄弟姉妹がその共同相続人となつた。

(五)  小松、横山、正治の三名は、昭和三五年五月ころ、控訴人に対し、いずれも本件建物及びこれに付随する借地権についての相続による各持分の全部を無償で譲渡した。

(六)  被控訴人は、控訴人に対し、昭和三五年秋ころ、イマの遺産のうち前記金約二四万円を控訴人以外の共同相続人四名の間で分配したい旨の申出をなし、控訴人の承諾を得て、そのころ、小松、横山及び正治の三名にそれぞれ金約五万円を交付して、右分配を完了した。

(七)  控訴人は、被控訴人との間で本件契約を締結して既に金六〇万円を支払つているのみならず、右金約二四万円の預貯金等の分配についての申出があつた際、被控訴人から本件建物について持分権を有する旨の主張もなされなかつたことなどから、昭和三五年秋ころには、自己が本件建物及びこれに付随する借地権の全てを単独取得したものと考えていた。

(八)  控訴人は、昭和三六年ころ、本件建物を自己名義に相続登記をすべく、他の共同相続人らに対し、所有権移転登記手続に必要な書類の交付を求めたところ、被控訴人以外の者はこれに応じたが、被控訴人は本件建物の方が前記預貯金等の合計金額より価値が高いのでその差額分を支払うべきであるなどと主張してこれに応じなかつた。

(九)  その後、被控訴人は、昭和五一年秋ころから、本件契約の有効性につき疑問を抱き始めて、控訴人に対し、本件建物について持分権を有する旨の主張をするようになり、同五二年には、いずれも被控訴人以外の四名の共同相続人を相手方として、右持分権存在確認の訴を札幌簡易裁判所に提起したり、遺産分割の調停を札幌家庭裁判所に申立てたりした。

そして、右訴訟は、昭和五五年四月に被控訴人勝訴の判決が確定した(以上のうち、右訴の提起及び右判決確定の事実は当事者間に争いがない。)。他方、遺産分割の調停は、不成立となつて審判に移行し、昭和五八年三月一七日、控訴人が本件建物及びこれに付随する借地権を単独取得するが、控訴人はその代償として被控訴人に対し金三六三万四五〇〇円を支払う義務がある旨の審判がなされた。しかし、被控訴人は右審判を不服として抗告を申立て、抗告審たる札幌高等裁判所は、昭和五八年一二月一三日、右審判のうち代償金を金六五八万五八〇〇円に変更する旨の決定をなした。そこで、控訴人は、右決定に従い被控訴人に対して、右代償金額を支払つた。

以上の各事実が認められ<る。>

2  以上の事実によれば、イマが死亡した昭和三五年一月三〇日すぎころにおいては、控訴人と被控訴人の両名は、右両者間で締結した本件契約が有効なものと考えていたこと、また、控訴人は、従来の経過に鑑み被控訴人以外の三名の共同相続人が本件建物についての持分権の主張をすることはなく自己が単独で本件建物を取得することができるものと信じ、他方右三名の相続人らも、控訴人が本件建物を取得することについては異論がなかつたので、同三五年五月ころに至り、右各持分権を控訴人に対して譲渡したこと、したがつて、控訴人及び被控訴人を含む五名の共同相続人の誰一人として、同年一月三〇日すぎころ、本件契約と同一内容の合意を必要とした者はおらず、本件黙示の合意がなされる余地はなかつたことなどが推認される。

そうすると、昭和三五年一月三〇日すぎころ、本件黙示の合意が成立した旨の控訴人の主張は、これを採用することができず、他にこれを認めさせるに足りる証拠はない。

三不当利得返還請求権の存否について

前記一に認定説示のとおり、被控訴人は、昭和二五年一〇月ころ、控訴人との間で本件契約を締結し、これに基づいて金六〇万円の交付を受けているが、本件契約は無効であり、被控訴人は、法律上の原因に基づかないで金六〇万円を利得したものである。

そして、右不当利得金の返還を請求する本件訴状が、昭和五五年一一月一一日、被控訴人に送達されたことは記録上明らかであるから、被控訴人は、遅くとも右同日には、右不当利得金返還義務の存在を知つたものということができる。

そうすると、被控訴人は控訴人に対し、右不当利得金六〇万円及びこれに対する被控訴人が悪意となつた日の翌日である昭和五五年一一月一二日から完済に至るまで民法所定の年五分の割合による法定利息の支払義務がある。

四不当利得返還請求権の時効消滅について

原判決理由三のうちの時効消滅に関する判示(原判決五枚目表六行目冒頭から同裏九行目の「理由がある。」までの部分)は、当裁判所の判断と同一であるから、ここにこれを引用する(但し、原判決五枚目裏一行目に「相続放棄の契約」とあるのを「本件契約」と改める。)。

五消滅時効の援用の信義則違反性について

1 前記二1の冒頭に掲示の各証拠及び前記当事者間に争いない事実に弁論の全趣旨を総合すると次の各事実が認められる。

(一)  先代萬治郎は、大正初期から布団屋を営み、大正一五年ころからは、商業学校を卒業した控訴人に右営業を手伝わせ、札幌市内に製綿工場を有し、本件建物を小売店舗として綿類製品の販売をなしていた。

(二)  イマは、昭和一一年一一月ころ、前主から買受けて本件建物の所有権を取得した。

(三)  先代萬治郎は、昭和一一年一一月二七日に死亡し、控訴人が家督相続により先代萬治郎の前記事業を承継した。そして、控訴人は、昭和二五年ころ、訴外丸村木下綿行株式会社を設立し、従前同様に前記工場及び本件建物などを使用して右事業を経営し、現在に至つている。

(四)  被控訴人は、終戦後の昭和二一年春ころ、九州から札幌市に復員してきたが、その後は職に就くこともなく、控訴人方において居候生活を送つていた。

(五)  被控訴人は、昭和二三年五月に婚姻して職を得たが、生計に余裕がないため、同二五年春ころ、前記のとおり家督相続により先代萬治郎の前記事業を承継してこれを経営している控訴人に対し、生活資金として金六〇万円を請求した。そこで、控訴人は、右事業経営上重要な本件建物を将来ともに確保する必要もあつたので、イマ死亡の場合において被控訴人が取得すべき本件建物の五分の一の持分権を控訴人に対して譲渡ないし放棄するのであれば右請求に応じる旨主張して被控訴人と交渉を重ねた結果、被控訴人もこれを了承したので、控訴人と被控訴人との間において、昭和二五年一〇月ころ、本件契約が締結され、控訴人は被控訴人に金六〇万円を支払つた。

(六)  控訴人は、本件契約は有効であり、被控訴人に対して交付した金六〇万円の返還請求をなすことはできないものと考え、イマの相続開始後あえて本件建物を控訴人の所有名義とする所有権移転登記手続をとることもなかつたものであるところ、被控訴人は、昭和五二年に至り、本件建物についての相続による持分権の存在を主張して、右持分権存在確認訴訟や遺産分割の調停を申立て、これらは前同所に認定のとおり、ほぼ被控訴人の主張に沿う結果に終つた。

以上の各事実が認められ<る。>

2 右1及び前記二1に認定のとおり、控訴人は、昭和二五年一〇月、被控訴人の要求に応じ、当時としては極めて高額と認められる金六〇万円を被控訴人の生活資金として与えるに際し、先代萬治郎から承継した前記事業に必要な本件建物を将来ともに確保すべく、被控訴人との間で本件契約を締結し、その後同五五年四月に被控訴人の本件建物についての持分権の存在が確定するまで本件契約が有効であると信じて本件建物を右事業のために使用してきたこと、さらに、控訴人は、被控訴人以外の小松、横山、正治ら三名の相続人からは、いずれも同三五年五月ころ、本件建物についての各相続持分権の譲渡を受けたりしたので、同年秋ころからは、本件建物が自己の単独所有に帰したものと信じていたうえ、右三名の相続人からは勿論被控訴人からも、その後約一七年間にわたり、何ら右持分権の主張をされることはなかつたため、あえて本件建物を控訴人の所有名義とする手続もとらなかつたこと、したがつて、控訴人が被控訴人に対して前記金六〇万円を不当利得として返還請求することは、被控訴人の本件建物についての持分権の存在が確定した同五五年四月ころまでは事実上期待しがたい状況にあつたこと、控訴人は、その後間もなく同年一〇月二二日に至り、右返還を請求する本訴を提起していること(右同日本訴が提起されたことは記録上明らかである。)、他方、被控訴人は、同五一年秋ころまで本件契約を有効と考えていたため、控訴人に対して本件契約の無効であることや前記持分権の存在の主張をなすことはなかつたところ、同五二年に至り突如として態度を変えて右主張を始めるようになり、その結果最終的に、本件建物及びこれに付随する借地権についての五分の一の自己の持分権に見合う金六五八万五八〇〇円の代償金の支払も既に控訴人より受けていること、右代償金の算定につき、本件で交付された金六〇万円が斟酌されたものとは認められないことなどの事実関係に照らすと、控訴人の前記金六〇万円の不当利得返還請求権の不行使は社会的に責めらるべき事情が少なく、権利の上に眠つていたものとはいえないから、被控訴人がこれにつき消滅時効を援用することは信義則に反し許されないものというべきである。

六不当利得返還請求金額の修正について

控訴人は、前記金六〇万円は、イマの相続に関し特別受益の性質を有する金員として交付されたものであり、かつ、本件紛争の実態は、本件相続に関し相続開始前に右金員を得た被控訴人とその余の共同相続人との間の公平の維持を求めるところにあるから、右金員は現時点における貨幣価値に換算した価値をもつて評価すべきである旨主張するところ、右金員交付時と現時点とにおいては、その貨幣価値に多大の変動があつたことは公知の事実である。

しかしながら、右金員は、前記認定のとおり、共同相続人の一人である控訴人が他の共同相続人である被控訴人に対し、無効な本件契約の履行として交付したに過ぎないものであつて、将来イマが死亡した場合における相続に関連していたとはいえ、被相続人が相続人に対して供与する特別受益とはその本質を異にするものというべきである。

したがつて、本件は、遺留分減殺請求に関し、具体的相続分または具体的遺留分の算定にあたり、共同相続人間の実質的公平の維持の見地から、相続人が被相続人より贈与された金銭をいわゆる特別受益として遺留分算定の基礎となる財産の価額に加えるにつき、贈与の時の金額を相続開始時の貨幣価値に換算した価額をもつて評価すべきであるような場合とは、その事案の内容及び性質を異にするものであるから、本件においては直ちに右のような貨幣価値の変動に従つた評価換えをすることは相当ではないというべきである。

そうすると、右の不当利得金額を修正すべき現行法上の根拠は存在しないものというほかはないので、控訴人の前記主張は採用することができない。

七結論

よつて、控訴人の本訴請求は、前記不当利得金六〇万円とこれに対する被控訴人が悪意になつた日の翌日である昭和五五年一一月一二日から完済に至るまで民法所定の年五分の割合による法定利息の支払を求める限度において認容すべきであるが、その余は失当として棄却すべきであつて、本件控訴は一部理由があるから、これと異なる原判決を右のとおり変更することとし、訴訟費用の負担につき民訴法九六条、九二条を仮執行の宣言につき同法一九六条を適用し、主文のとおり判決する。

(瀧田薫 吉本俊雄 井上繁規)

物件目録<省略>

《参考・第一審判決理由》

一請求原因1、3の事実及び同2の事実のうち被告が昭和二五年一〇月ころ、原告より六〇万円の支払を受けた事実は当事者間に争いがない。

そして<証拠>によると、被告は、昭和二五年一〇月ころ、原告から六〇万円を受取ることを条件に、将来訴外イマの相続が開始した場合には相続財産の一つである本件建物についての相続分を放棄する旨約し、被告は原告から六〇万円の支払を受けたことが認められ、<反証排斥略>、他に右認定を覆すに足る証拠はない。

二原告は、被告が本件建物についての相続による持分五分の一を裁判上確定させたことは、本件契約の債務不履行であり、被告はこれにより原告に生じた損害を賠償すべき義務があると主張する。

しかしながら、わが民法上相続人が相続開始前にあらかじめ相続を放棄することは許されず、また相続開始前に他の相続人との間で相続を放棄したり、自己の相続分を譲渡する契約を締結しても右契約は無効と解するのが相当である。したがつて、前記一で認定したとおり被告は原告より六〇万円の対価を受けることにより、訴外イマの相続が開始した場合には本件建物の相続分を放棄する旨約しているのであるが、右契約は無効と解さざるを得ない。そうとすれば、右契約が有効であることを前提とする原告の債務不履行の主張は、その余について判断するまでもなく失当というべきである。

三次に原告の不当利得の主張について判断するに、前記のとおり、被告は原告に対し、訴外イマの相続が開始した場合に本件建物の相続分を放棄することを約し、その対価として原告より六〇万円の交付を受けているのであるが、相続開始前の相続放棄契約が無効であることは既述のとおりであるから結局被告は法律上の原因なくして六〇万円を利得したものということができる。

そこで被告の抗弁(時効消滅)について按ずるに、不当利得返還請求権は権利を行使しうるときより一〇年の経過で時効にかかるものであり(民法一六六条、一六七条一項)、本件のように当初から無効な契約の対価として支払われた金員の返還請求権は交付当初から成立し、かつ返還を求められるものであるから、本件六〇万円の不当利得返還請求権の消滅時効は右金員が授受された昭和二五年一〇月から起算されるべきである(原告は、本件建物についての被告の持分権が裁判上確定した昭和五五年四月をもつて消滅時効の起算点と解すべきである旨主張するが、原告において相続放棄の契約が無効であることを知らず、または被告の任意の相続放棄を期待したがために、本件不当利得返還請求権を昭和五五年四月まで行使しえなかつたとしても、右のような事情は、権利行使についての単なる事実上の障害にすぎないものであつて、本件時効の進行を何ら妨げるものではなく、他に法律上の障害があつたことについてはこれを認めるに足る証拠はない。原告の前記主張は採用できない。)。そうすると、本件六〇万円の不当利得請求権は昭和三五年一〇月の経過をもつて時効により消滅したことが明らかであるから、被告の抗弁は理由がある。したがつて原告の不当利得に基づく本訴請求もまたその余について判断するまでもなく失当である。

四以上によれば、原告の本訴請求はいずれも失当であるからこれを棄却し、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

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